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特集 今、問われる教育問題の核心とは
「普遍」を教える情操教育を
…家庭読本『嵐の中の灯台』を国会で取り上げて
2002年3月号 日本の息吹
 
いま、教育現場には何が必要なのか。
長年、生活情報誌の編集を通じて世論の生の声に触れてきた山谷議員に聞く
『嵐の中の灯台』を国会で取り上げて『嵐の中の灯台』を詳しく知りたい方はこちら
---昨秋、衆議院文部科学委員会(10月31日)で『嵐の中の灯台』(明成社刊、明治ら終戦直後の教科書の物語18編をリライトして収録)を取り上げられたそうですが。
山谷:
 昨年は中学の歴史教科書が話題になりましたが、国語の教科書も問題なんです。私はうちの子供に、『嵐の中の灯台』を読ませて、「好きなお話を五つ選んでどこが感動したか教えて」といいました。するとその一つに「心に太陽を」のお話を選んできました。船が難破して、遭難した少女が漂流する人々を励ますために、丸太につかまりながら歌を歌うお話ですね。「他人のためにもことばをもて。くちびるにうたをもて、勇気を失うな。心に太陽をもて」と。子供が涙を流しながらこの物語の感動を語るんです。いまこういう本が少なすぎるんですね。『嵐の中の灯台』には、献身、自己犠牲の美しさ、あるいは上に立つ者のやせ我慢や忍耐などのお話がちりばめられています。やはり国語教科書には、人の生き方や感動を語れる教材の選び方があっていいと思うんです。
 いま、子供たちは、自分に自信がもてず希望をもちえていません。数年前の調査では、46%の子供が自分のことが好きでなく、47%が自分が人の役に立てるようになるとは思わない、と答えています。聖書の言葉に、「あなた自身を愛するように、人を愛しなさい」とありますが、自己肯定感や自分を信じるという気持ちがなければ、他人を愛せないんです。「心に太陽を」の少女のように、自分だって人を救う力を持ち得るんだというような、そんな勇気を与える教材が必用なんですね。
宗教的情操を教えなくていいのか
---国会質問では宗教的情操教育の問題も取り上げられました。
山谷:
 サンケイリビング新聞が米国同時多発テロ事件について行ったアンケートで、「事件について家族で何を話したか」への回答のトップは、宗教・民族問題でした。折りしも昨年12月中教審が、教養教育の在り方について最終答申案をまとめ、そのなかで、国際化時代を生きる現代人に求められる教養として宗教に関する理解が必要と明記し、世界の宗教に関する解説資料などをつくることとしました。それは結構だと思うんですが、しかしただ百科事典で読むようにするだけではだめであって、たとえば、教員も含めて神社、仏閣、あるいは教会などへ行ってお話を聞くようなこともあっていいのではないかと思います。それは特定の宗教宗派教育ということではなくて、大事なのは、目に見えるものの背後にある何か尊いもの、目に見えない超越させるものを推しはかる教育…そういう意味での宗教的情操教育だと思います。ところが、どうも学校教育の現場ではこのことについて腰が引け過ぎている気がします。

 たとえば修学旅行についてですが、京都、奈良に行く学校はこの十年で半分に減って、伊勢神宮にいたっては昭和五十年には54万人だったのが、平成九年には7万人にまで激減し、訪れた学校も鳥居の手前で解散したりしている。細かい説明は宗教活動になるから、という理由です。また富山の小学校では、給食前の合掌が宗教的行為ではないかとPTAの方からクレームが出て、県の数十校が給食前の合掌を止めたそうです。あるいは小学校の運動会でおみこしが問題視されたり……。

教育基本法の第九条二項に公教育では「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」とありますが、その解釈が混乱しているんですね。それは決して宗教的情操教育を否定しているものではないはずです。現に学習指導要領の「道徳」の項目には、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」とあるわけですから。

 戦争のトラウマがあるからか、いま、学校の先生方や親など日本の大人たちは、子供たちに生き方を教えることに臆病になりすぎている。生き方を教えることが全体主義になるとか、何か大きな勘違いをしているのではないか。子どもたちは、「自主性尊重」「自己決定が大事」とか言われても、基本を教えらていないから、貧しい自己決定しかできないんです。その結果、生き方の方向性を見失い、漂流してしまっている子供たち。痛々しいことだと思います。
普遍的な尊い生き方は伝えられなければならない
山谷:
 私は、時代はいかに変ろうとも、伝えるべき普遍的な生き方というものがあると思います。

 たとえば、自由の国と思われているアメリカは、常にベースとなる価値を確認しています。ブッシュ大統領は就任演説で、「アメリカは非常に強く、品格がある素晴らしい国だ。それはわれわれがすばらしいのではなくて、われわれを越えるものによって導かれているこのアメリカがすばらしいのだ。この市民感覚を失ったときに、全ての政策は進歩していけない」という趣旨を述べました。つまり超越せるものに対する信頼と、より高きものを目指して行くスピリットという普遍的な価値を確信しているわけです。一方、我が日本は普遍的な軸を常に確認しながらものごとを決定していくという姿勢を見失っているのではないか。昔の日本人は、その普遍的な生き方のコアを神道なり仏教なりの影響でしっかり持っていた。ところが、戦後の日本はその部分を切ってしまったんです。

 私は浄土真宗王国である福井県で育ちました。戦後間もない頃でお寺には塀もなく、子供たちは境内であそんでいました。ラジオ体操に行った帰りにはお掃除をしなければお坊さんに怒られました。夏休みは冷房もないから、みんな涼しいお堂で宿題をやります。するとお坊さんが通りがかりに、「和顔愛語」とか、「一隅を照らせ」とかポソポソッと大事な言葉を言ってくれたりする。また、私が通ったキリスト教系の幼稚園では、「主、我を愛す。主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ」などと歌っていました。
---幼い頃からベースとなる環境にふれることが出来ていたわけですね。
山谷:
 ええ、でも、現在は、そういう環境が少なくなってきていますから、軸となる大いなるものを感じる場面設定を親や教育者が考えてあげないといけないと思います。私は公立小学校のPTA会長をしていた時、保護者に地元の神社の由来を講演したり、放課後の子供たちに、お寺で僧侶から生命にについてのお話を聞く自由参加プログラムを企画してたいへん喜ばれました。
---たとえば、どんなお話を?
山谷:
 その地域は昔から献上米作りをやっていて、村の代表が遠くの山の神社に雨乞いに行く。村人たちはその帰りをずっと地元で待っていて「ああ帰ってきてくれた」とみんなで喜ぶ、そんな一体感のある村でした。それから「明治、大正時代に曾爺ちゃんが町のために貢献したから今でもあそこの家には御神輿がとまるのよ」と。そういう話を聞くと町が突然、人間的な息吹をもって生きてくるように感じるわけです。私たちは、ずーっと過去の豊かさをいただいている存在で、そこから次代を育てるエネルギーも沸いてくる。過去の豊かさを切ってしまったら何の力も出てこないと思います。
子育ては「権利が十分の一、義務が十倍になる」すばらしい体験
---歴史に繋がることで町も人も輝いてきたんですね。
山谷:
 そうです、「繋がり」がキーワードなんですね。扶桑社の公民教科書のコラムに紹介されていましたが、サッカー元日本代表のラモス選手は「日の丸を背負ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ」と言いました。個というのはいろんな繋がりによってもっとパワーが発揮できるし、自分を越えた存在と共に生きることでもっと自分を越えられる。そういう豊かさを見る目をもう一度思い起こす必要があると思います。

 それはまた国際的に通用する人材を育てることにもつながります。大学時代、アメリカ人のシスターから言われたのは“To be international be national.”ということでした。国際人になろうとするなら、日本の国の様々な豊かさを知りなさい。まず自分の国の美しさを知らなければ、他の国の美しさを見たり、共感したりする目や感性は育たないと。

 戦争のトラウマがあるからか、いま、学校の先生方や親など日本の大人たちは、子供たちに生き方を教えることに臆病になりすぎている。生き方を教えることが全体主義になるとか、何か大きな勘違いをしているのではないか。子どもたちは、「自主性尊重」「自己決定が大事」とか言われても、基本を教えらていないから、貧しい自己決定しかできないんです。その結果、生き方の方向性を見失い、漂流してしまっている子供たち。痛々しいことだと思います。
---そのためには、大人たちがもっと普遍的価値について自信を持たなければならない。
山谷:
 ええ、たとえば家族の問題にしても、その普遍的軸がぶれたまま議論しても仕様がないと思うんです。

 私が子供を産んだときに父親から言われたことは、「権利が十分の一、義務が十倍になる。でもそれはすばらしいことだ。それが豊な充実した人間の生活というものだ」ということでした。いまは「権利が奪われることは損だ」という価値観が幅を利かせていますが、でも、子供を産むことで自分という存在が、どれだけの多くの人々の忍耐と祈りによって育てられてきたのか気づかされて、とっても豊なものをいただけるわけです。
「間を釣り合わせる」政治の使命
---先生は長くサンケイリビング新聞の編集長として、世相を眺めてこられたわけですがいま政治家として伝えたいメッセージとは?
山谷:
 「政治の要諦は民をして病むなからしむるにある」と言われます。それは経済的身体的な意味だけでなく、精神的な意味もあると思うんです。ケネディ大統領は“Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country”「国があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国に対して何をできるかを問おうじゃないか」と言った。自分のことよりも他の人のために、国のために何ができるか。彼はそういうメッセージでもってアメリカ国民にモラルのベースをつくろうとしたんだと思います。日本はいま不況だけれども心もかなり病んでいる状態です。政治家はその両方を元気にする視線をもって取り組む必要があると思います。

 それと今の現実社会はどうかという視点を忘れたら、どんなに良い法案でも悪用されます。「政治は間を釣り合わせる」…現実とあるべき姿の間を釣り合わせるのが政治だと大学で習いましたが、この感覚を大事にしたいと思っています。

 私がサンケイリビング新聞の編集長をしていたとき、主婦向けの生活情報誌なのに、結構男性からの問いあわせも多かったんです。例えば、「紹介してある料理のレシピは何ミリのスパゲッティですか」とかね(笑)。ある地域では男性読者が四割を占めているところもありました。だから私は男女共同参画社会というのはすでにかなり実現されている部分があると思うんです。

 四年前の「男女共同参画社会に関する世論調査」では、「結婚生活で相手に満足できないときは離婚すればいい」という人が54%で、前回の調査よりも約10%増えた。昨年夏の日本青少年研究所調査では、「必ず結婚すべきだ」という中高生はアメリカ人78%に対して日本人はわずか20%でした。こういう社会状況の中で選択的夫婦別姓制の法案を通してしまったらどうなるか。そこのところをちゃんと見極めていかなければならないと思います。

 新聞報道(日経、1月27日付)によると、アメリカでは、中高生に結婚の意味を教える「結婚講座」の受講を義務づける州が増加しているそうです。結婚というのはある意味で祈りと我慢なんだから、我慢しなさいと基本を教えているんです。また、日本青少年研究所調査では「売春など性を売り物にすることは本人の自由」というのが日本は25%、アメリカはデータが出なかった。これはアメリカの教育者が「こんなことは悪いに決まっているじゃないか」と怒って調査を拒否したんですね。やはり、普遍的な生き方を教えようとどの国も努力しているんですよ。その意味でいま日本は先進国の中でも異常な国になってしまっていると思います。

 選択的夫婦別姓制について、昨今結婚で女性の姓が変わると仕事上支障をきたして不便だ、という声が大きくなってきてはいます。でもそれはこれさえあれば問題解決で、不便だと言う議論は終わりなんです。

《ここで山谷氏は、国会議員身分証明書のカードを取り出された。そこには、本名の「小川恵里子」が括弧にくくられ、旧姓で議員名の「山谷えり子」と共に記してある》

 別姓推進派の方は、法律婚、事実婚、同棲、愛人関係の垣根を低くしようと運動しているわけです。そのことと働く女性の不便さという議論を合体させている。しかし、そうであれば、家族と国家観に関わる大きな問題で、分けて考え、もっと慎重に議論すべきことと思います。
『嵐の中の灯台』を大ベストセラーにしよう
---今回、お話を伺って、まっとうな常識の軸を立てる営みの必要性をあらためて痛感しました。
山谷:
 そうですね。家族や地域、祖国との繋がりを否定して、「個」や自己決定権が大切というような主張が幅を利かす風潮にあって、『嵐の中の灯台』のような良書が刊行されたことは非常に大きな意味があると思います。娘と一緒に読んでずいぶん会話が弾みましたし、それからキャッチフレーズに「親子三代で読める」とあるように、孫ができたら読んであげるのがすごく楽しみなんです。「あなたのお母さんはベスト5にこれを読んだのよ。あなたはどう?」などと話ができたらすてきだなあと。朗読すると日本語もとても綺麗で、挿し絵もすばらしい。もちろん内容は「青の洞門」や「稲村の火」など、大人になっても思い出すことができるような心に残る物語がある。今の子供たちは断片的な知識の詰め込みばかりで、何の価値判断もできない材料だけで学校を卒業してしまっている。価値観に軸が何も残らないような教育は教育として品質保証ゼロだという感じがします。だからこそ『嵐の中の灯台』が、「ハリー・ポッター」に負けずに爆発的に売れてほしいなと願っています。
(1月28日インタビュー)

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