メッセージ(バックナンバー)

 ノモンハン事件から三国同盟にかけての資料を読み直しました。
 ノモンハン事件とは昭和14年5月〜8月にかけて満州西北部ノモンハン付近で、関東軍プラス満州軍と極東ソ連軍プラスモンゴル軍とが大激戦をし、日本側に7720人の死者、ソ連側に24992人の死者を出した事件です。日本国内中央の陸軍は、問題を起こさないように望んでいましたが、関東軍は独自方針を決めて激戦となってしまったものです。もっとも4000Hの国境線をめぐって、昭和11年には152回、12年には113回、13年には166回の紛争が頻発していたのですから、伏線はありすぎるほどにあったわけです。
 戦いすんで「ノモンハン事件研究委員会」が作られます。そして「日本は信念、精神力が発揮されたいっぽう。ソ連側は戦車や補給などの力が発揮された。」という言語明瞭、意味不明の報告書が出ます。どちらが勝ったのか、(死者では日本が、国境線ではソ連側が勝利したとでもいいましょうか)また、そこから何の教訓を学んで、どういう戦略としていくかが十分読みとれません。参謀は責任を十分にとったとは言えないまま、アレもコレも大事と書いてあるものの、この時にもう少し実態調査と分析を重視する姿勢があれば、北進からいきなり南進政策になり、そして乱暴な大東亜戦争へという流れが違っていたかもしれません。
 また、日独伊三国同盟の提案に対し、海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美の3人が反対し、70回も会議が開かれても結論が出ない歴史と人の動きも見つめていくと深いものがあります。山本五十六はテロリストの標的となり、遺書も書いて命懸けの三国同盟反対の発言をし続けます。満州ではノモンハン事件の頃です。
 山本五十六は海相にという声もあったものの連合艦隊司令長官として海に出ます。(余談ですが、軍医だった夫のオジが山本五十六の検死をし、生前その時のことを語ってくれました。)米内、山本の思いをうけた吉田海相は三国同盟を結ぶことに承知しません。吉田海相の手記には、孤立化して夜も眠れず自殺まで考えたとあります。吉田の辞任後、後任となった及川海軍大臣は、三国同盟に賛成し、流れはあともどり出来ないように作られていきます。
 後の時代の人が、“何と愚かなことを”と賢そうに評論しても、あの時代のマスコミ報道、それによって作られていく世論、国民感情、そして政権内部の人間関係と人事、情報収集の限界の現実は、特定の誰かに責任をかぶせてすむような問題ではありません。このところの永田町での歴史観をめぐるやりとりを聞いていると、歴史から学ぶことの困難さに苦しくなります。

平成17年6月9日 山谷えり子

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